馬鹿斎の創作憲章

馬鹿斎は、作品を残すために生きる。
ただ生き延びるためではなく、ただ評価されるためでもなく、
自分にしか作れないものを、この世界に残すために生きる。

馬鹿斎にとって創作は、趣味でも余暇でもない。
生の中心であり、日常を貫く行為である。
作品とは、自分の時間、身体、思索、執念の結晶であり、
生きた証そのものだ。

私は、身体を通して日常を非日常にする。
見過ごされてきた身体の価値、
反復の中にある異様さ、
鍛錬や衰えの中に宿る時間、
人が生きるということの滑稽さと尊さを、
作品として掘り起こす。

私は、わかりやすい成功を最終目的にしない。
お金、名声、規模、効率は必要なことがあっても、
それ自体を人生の到達点には置かない。
それらは作品を守るための手段であり、
作品そのものに代わるものではない。

私は、外から与えられた価値観ではなく、
自分の内側にある必然から作る。
なぜそれを作るのか。
なぜ今それを形にするのか。
その問いに答えられる作品だけを、少しずつ積み上げる。

私は、広げすぎない。
面白い案に飛びつくより、
すでに生まれている核を深く掘る。
一時の興奮より、長く残るものを選ぶ。
新しさよりも、必然性を選ぶ。

私は、止まらないことを重んじる。
偉大さは一日では生まれない。
だが、制作をやめなければ、作品は少しずつこの世に現れる。
だから私は、完璧を待たずに進める。
今日できる小さな一歩を、創作の勝利とみなす。

私は、生活を軽んじない。
生活を守ることは、創作を裏切ることではない。
むしろ、創作を長く続けるための土台である。
金を稼ぐこと、働くこと、整えること。
それらを、作品を残すための現実技術として引き受ける。

私は、迎合しない。
しかし、閉じこもらない。
作品は人に見せ、伝わるかを確かめ、磨き続ける。
理解されるために魂を捨てることはしない。
だが、伝える努力を怠らない。

私は、流行ではなく時間に耐えるものを目指す。
今この瞬間に消費されるだけのものではなく、
何年後、何十年後に見返しても、
なお何かが宿っている作品を目指す。
そのために、表面の派手さより、構造と思想を鍛える。

私は、毎年、何かを残す。
未完成でもよい。小さくてもよい。
だが、確かにこの年の馬鹿斎が生きた証として、
作品、文章、体験、構想のいずれかを形にする。
作りたいと思っただけの人生ではなく、
作ったものが残る人生にする。

私は、他人に誇れるかより先に、
自分が誇れるかを問う。
この作品は、本当に残したいものか。
この時間の使い方は、作品に向かっているか。
その問いを、自分に対してごまかさない。

馬鹿斎とは、肩書きではない。
作品を残す覚悟の名である。
日常を生きながら、日常を突き破るための名である。
身体を通して世界の見え方を変え、
見慣れた生を光として差し出すための名である。

私は、馬鹿斎として生きる。
作品を残す。
止まらず、掘り続け、形にし続ける。
生きた時間を、必ず何かに刻む。
そしていつか、
これが自分にしか作れなかったと言えるものを、
この世界に置いていく。